二つの使命

この著書は、私が書いたとされる本では、14冊目となります。ただし今までの11冊は、取材に応えた対策物であるため、著者とまでは言えないと思っています。
今回は納得のいくものにしたいと願い真剣に取り組んでいます。

使命のひとつ目は「ゴムバンド健康法」の普及です。
二つ目は「日本の健康法」の追究です。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」!という格言もありますが、一兎目の研究は終了し、論理・論拠の追究に費やす必要がありません。あとは日本中・世界中に向けて普及させることが使命と考えております

二兎目の「日本の健康法」の普及と実践は、出来うる限り追究しますが、夢半ばで人生を終える可能性が高く、拙著の読者に夢をつないでもらいたいという思いはありますが、無謀且つ絵空事と思われる帰来があるため、封印する事とします。
それを心の中に秘めたままで人生を終える事だろうと考えています。

この使命を語る上では、そこに至った経緯を書き連ねていく事が、一番理解し易いと思い、全体的に自叙伝のような体裁になっていることを、前もってお詫びいたします。
世界で初めての、身体における絶対的真理と共に、いまからの日本を、間違いなく幸せにできるはずの方法を、お伝えできれば良いなぁと思っています。

2016年 晩秋

第一章

1985年、群馬の山中に落ちた日航機事故の報道を、赴任地であった長崎市のサウナで、どこか遠い国の出来事のよう見ていました。歯科医師としてあまり苦労も知らず、やや贅沢な生活を送れる奢りもありました。

翌年、東京の医科歯科大学に戻り、のんびりとした生活を送っていましたが、5月6日の真夜中、三時過ぎに激痛で目を覚ましました。
左尻から左ひざまでの表現し難いほどの激痛としびれ。トイレまでの3メートルを這っていく有様でした。
人生初の苦しみに突然襲われたのです。

 
父、兄は医師であり、多くの患者の苦痛を治療していた実績もあった為、その日まで、病気や痛みは西洋医学が助けてくれるものと信じていました。
しかし37日後には苦痛から逃れるため、飛び降り自殺を本気で考えだしたほどです。
この背水の陣から、希望の光が差し込む体験をしたのです。
その痛みから生還した経緯を忠実に、かつ真実を書き込み、伝える事が私の残された人生の使命のひとつと思っています。

生い立ち

1951年(昭和26年)うさぎ年。12月生まれ。
いて座の0型。群馬県前橋市の田舎医師の二男として生まれました。
私は忘れっぽい性格のせいで、幼少期の思い出はとても少ないです。
幼稚園は群馬県庁の近くの清心幼稚園に通いました。
父に言わせると「群馬のエリートコースは清心幼稚園、群馬大学附属小学校、同中学校、県立前橋高校、東京大学である」と教えられました。
私は、青山学院大学中退、日本歯科大学卒業なのでそのコースを大きく外れた事になります。

幼稚園時代の記憶はとても少なく、幼稚園内での思い出はほとんどありません。写真を見せられて母に色々と教えられても、へぇっとうなずくのみです。
ただし幼稚園の帰り道では、憶えている事がいくつかあります。
私を迎えに来るのは、いつもおばあちゃんでした。ケーキ屋さんと思っていた街中の「不二家」の二階のレストランに、時々連れていってくれました。
おばあちゃんが注文するのは、いつも「スパゲティー」。自宅で母が作る事は、ほとんど無い時代だったと思います。
当時はメニューにナポリタンしかなく、トマト味の甘い香り。湯気の立ったナポリタンが湯気を立てて出てきました。  
そこに振りかけるのは、粉チーズと細長いガラス瓶に入った赤い液体。おばあちゃんにはそれを「タパスコ」と教えられたので、だいぶ長い間、そう呼んでいて、恥をかきました。その味は私に大人の味のひとつとして大好きな刺激と味でした。
ハイカラ好きなおばあちゃんは、繁華街中心にある「ロキシー」という薄暗いジャズ喫茶店にも連れていってくれました。父母とは決して入った事のない場所でした。
注文は「アイスクリーム」たまに「バニラね」とつけ加え、物知りなおばあちゃんだと思っていました。
銀製の脚のついた薄いお皿に丸く乗せられたアイス。その上には細長く味のないおせんべいのようなものが乗っていて、当時の私には、とても美味でした。
食べた後に、必ず舐めまわして、ピカピカにするのが、現在にも続く、私の食習慣の原点だと思っています。 

私の家族


おばあちゃんは「髪結いさん」で、今でいう美容師さん。
丸まげを結わせたら、前橋で右に出る人がいないとの事らしく、父のプライドのひとつであったようです。お弟子さんも取っていて良い羽振りだったと聞きます。

おじいちゃんはというと、典型的「髪結いの亭主」そのままの人でした。生活費はおばあちゃんにまかせていたと聞きます。二人とも晩年は私の家の二階に住んでいて、おじいちゃんは母からお小遣いをもらってギャンブルをしていたようです。
昔はお花や書道を教えていたと聞きましたが、私の記憶にある祖父は、競輪場通いの寡黙な人。競輪開催日にはどんな天候であっても出かけて行くほどの、競輪ファンでした。おじいちゃんとの記憶はほとんど無く、赤城山中腹にある畜産試験場での写真を見ると、芝生で遠足のお昼ごはんを食べている場面で、その思い出が少しある程度です。
祖父母は二人とも自宅で医師の父が看取ったのですが、私はその瞬間には立ち会えませんでした。祖父はいざ知らず、祖母の葬儀などでは、涙を流すだろうと想像していましたが、まったく涙が出ずに、自分自身を冷たい人間とレッテル貼りしたことを憶えています。


大正生まれの父は私と同じ附属小・附属中、前橋高校コースを経て、東京医専(現東京医科大学)に進み、戦争では軍医中尉として、ブーゲンビルやガダルカナルなどの南洋に派遣されたと聞きました。
そして、時々私に楽しくなるような戦争の話をしてくれました。
食料に困ると手りゅう弾を海に投げ込み、どっか~んと水しぶきが上がると、魚がたくさん浮き上がってきて、手づかみで獲れるからひもじい事はなかった。それに南の島なのでヤシの実が水分補給になるし、とてもおいしかったと話してくれました。
南洋は熱いくらいの陽気だから、いつでも裸でいられる。碧い空と青い海、真っ白い砂浜。
夢のようなところだったと言います。

戦いの話は・・日本軍の銃は単発でいちいちガッちゃんガッちゃんと弾を装填するけれど、相手方はバババババッと自動小銃を撃ってくる。勝てるはずがないとも言っていました。
大変な危険も経験したらしいのは、ガダルカナルの戦いで、上陸した米兵のタンク(戦車)が砂に伏せていた父の真横を通過した時、
泥をかぶり、埋まってしまい、かろうじて顔半分だけ埋まらずに息ができた。
そして捕虜となったようです。

5万人の軍隊で生存者が500名と聞けば、生きていられたのはラッキーだったと思うと言っていたのは当然でしょう。
捕虜収容所の時、マラリヤなどの感染症がひどく、多くの同僚を救えなかったと言って悔やんでいるようでした。
戦場に派遣されるその前に、医大の先生から、「敵はともかく、味方の軍人も殺してこい!それが医者として大事な経験となり成長できる」と伝えられたと言います。
父は英語が多少できたので、米軍人との友情も芽生えたようでした。バリバリのキリスト教徒であったため、父は、米兵との交流もありえたと思っています。
以前、その時に預かった聖書をオーストラリアの兵士に返還する事が、NHKテレビに取り上げられ、テレビ画面に父が小さな声で申し訳なさそうに話す姿は、普段の父と違い、同僚の英霊たちに対する気持ちが現されていたように感じました。  

戦争の話を楽しそうに語る父に、中学の頃、聞いたことがあります。
私「戦争って楽しいの?」
父「冗談じゃない!!あんな事は絶対にしちゃいけない!!」その後、父から戦争の話を聞くことはありませんでした。
これに関連して、父の生前の行動を引き継いでいる事があります。
靖国についてです。靖国神社に参拝しない父に、なぜ行かないのかと尋ねました。
父「本物の同僚が眠っているのは、靖国ではない。お骨があるのは、千鳥ヶ淵だ」
医療人らしい、実証を好む人の答えでした。
確実に、お骨が祭られている千鳥ヶ淵戦没者墓苑には足しげく行くのに、魂が帰るという靖国に行くという事を聞いたことがありません。
これを私は引き継いで、機会を見つけて、千鳥ヶ淵にお花を手向けにいく事にしています。 
そんな父も数年前、逝去しました。
祖父母の時に立ち会えず、お葬式でも涙ひとつ流さなかった私は、父が亡くなった直後だけ数十秒間だけ、涙を流しました。
尊敬できるが、あまり好きではない父でした。父の協力なくしては、私の健康法も成就できなかったと思うので、その点ではとても感謝しております。
父の教えの中では「人にしてあげられる時にはしてあげなさい。してあげたくてもできない時があるから」が一番印象的です。
いま日常でもこの言葉は生きています。
私の根本であろう「人助け」として流れているように思えます。

母は大正の最後の年に生まれました。だから母の年齢は昭和の年号と同じなので、憶えやすかったのです。
母方の祖父は日赤病院の事務長をしていたと
聞いていますが、真偽のほどは解りません。
父は硬式テニス、母は軟式テニスをやっていたと聞きましたが、母のプレーは見た事がありません。六人兄弟の長女だから、気が強いことには疑いはないのです。
若い時から洋裁を習い、教えている事もあったようなので、器用だったと思います。
小さい時の子供服はほとんど手作りだったと聞いています。
父は医師として診察だけをして、家庭のことはすべて母でした。炊事洗濯家事全般、つつがなくこなす母でした。
朝は早く起きて、大きな鉄釜をガスにかけて、「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ。子供泣いても蓋とるな」こんな炊飯の極意を教えられました。当時、電気釜はありませんから早起きしての炊事は苦労しているように感じました。
夕方お風呂を沸かすのも母の役目、薪を割るのも母でした。薪割りを時々手伝うと喜んでくれて褒められるのが当時の嬉しい思い出です。
洗濯は洗濯板とタライ。群馬の水の冷たさは手の皮の厚さが物語っていました。
母の思い出はたくさんあるので、書ききれません。
ただし母の教えは確実に私の生き方の根底に流れています。
「人に迷惑かけないでね」これひとつです。
母が亡くなった時に、親族のお葬式では悲しみの涙をほとんど流さず、冷たい人間なのではと自分を疑っていた私は、その疑いを一蹴できたのです。
荼毘に付し、天国に召されたであろう母の肉体が消滅するまで、とてつもない涙をながしたのです。 
男の子供にとって母は特別と聞いたことがありますが、母への感情は失って始めて知るのだと思いました。 

兄は二歳ちがいですが、学年は三つ離れています。
印象的な思い出があります。
私が小学生の頃だったと思います。二人で利根川の河原で花火をすることになり、兄の漕ぐ自転車の後ろに乗って友人と出かけました。
花火に火をつけて遊ぼうとしたその時でした、突如兄のポケットから発火し、ポケットに押し込んできた花火が爆発。摩擦熱か何かによって火を付けずに爆発発火したようです。その火の勢いは子供には、驚くほどでした。
兄は冷静に川の水をかけて消火し、来た時と同じように後ろに私を乗せて、家まで帰ったのです。
私は着くなり大声で叫びました。お兄ちゃんを叱らないで! 
改めて服を取ると焼け焦げた服が皮膚に貼り付き、見るからに痛そうでした。
しかしその時、兄は泣かなかったと記憶しているのです。
非常に我慢強い兄で責任感の強い人です。あまりケンカはしませんでしたが、私の身長や体重が兄と逆転した頃に、最後の取っ組み合いをしたと思いますが、抑え込んだのは私。
それ以降、ケンカらしい喧嘩はしたことがありません。

小学校時代

小学校時代の記憶も本当に数少ないのですが・・
忘れられない一年生の時の出来事があります。
四年生の兄が朝、体調を崩し学校を休むとの事。
母「晶、お兄ちゃんが休むことを担任の先生に伝えてちょうだい!」
大した事ではないと思った私は、気楽に承諾し、登校しました。
担任に伝えると、自分で兄の担任の先生に伝えるように言われました。
兄のクラスがある部屋は、長い廊下の先。
私は朝礼が始まった、シーンとする廊下を歩きながら、どんどん怖くなり、緊張してきたのです。
兄の担任がお話をしている最中に、タイミングを計ろうとしますが、心臓の鼓動が耳に直接感じられるほど、ドキドキしているのです。
入口のドアを叩いて、すぐにギギッと音がして、担任の顔と・・兄の同級生40名位の視線を浴びました。
「お兄ちゃんは・・今日休みます!」その瞬間、大粒の涙が溢れ、腰が抜け、うずくまってしまいました。
その午前中は怖さが収まらず、早引けしました。
母に連絡が来たらしく、私は、かなり褒められた覚えがあります。

その時から、今日まで「一度口にしたことは、どんなに怖くても障害があってもやり遂げる」キッカケとなった気がします。

小学校中盤は鉄棒、跳び箱の好きな、やんちゃな子供。鉄棒の柱の上に学生帽をおきわすれ、夕方、取りに行った時、用務員さんにお願いして、肩車して取り、飛ぶように走って帰り、今後は忘れ物をしないようにとおもったので、用意周到な性格になったのかもと思います。
それでもこの歳になり、物忘れが激しくなってしまいました。

4年生の頃には、ケンカ仲間が二人いました。顔を合わせるとなぜか子供のケンカになりました。
無論、傷つけあうようなことはなく、じゃれあいだったのかとおもいます。
この後、医学部の教授と薬剤師になったと聞き、似通った道を歩いているようです。

小学校の終盤5年生から卒業まで、給食が学校の都合でなくなり、母が作るお弁当生活。しかも私の大好物ばかり。
好き嫌い(主に野菜)の多かった私は、給食を食べきるまで、教室の外で泣きながら、飲み込んだ記憶があったのですが、大好物満載の弁当を腹いっぱい食べる事とホルモンの影響か“見事“チビデブ”になりました。

中学校時代

中学時代は暗黒時代。
国立附属の学校であれ、他の人は知りませんが、確かにいじめは存在しました。私がその証人です。
休み時間になると、不良三人組にトイレに呼び出され、便器に顔を押しつけられたり、羽交い絞めや耳をつねられたりしました。
ここは母の教え「ひとに迷惑をかけないでね!」の教え。ただ耐えました。
ちびデブの典型の私は、先生に告げ口すれば、後が怖いし、彼らに迷惑がかかると考えました。
でも心の中ではいつも念じていました。
「みんなバチが当たれ!!」「いつか見てろよ!!」
三人のうち、ふたりはすでに逝去していて、復讐することも叶いません。
支えてくれたのは、家族であり、担任だった丸顔の先生でした。
この事で私の忍耐力が培われたのかもしれません。
この3年間の記憶が少ないのは、忘れる努力をしたからだと思います。
人の能力の中で大切なひとつに忘却があると思うようになりました。
中学卒業の残す言葉に書いたのは「余裕を持ちたい!」と記憶しています。

高校時代

高校に入学して、テニス部に入部すると、夏の厳しい練習と成長期と相まって、身長が伸び、普通体形になりました。
無論、いじめはありませんでした。
一年生の後半から始めた、自宅前のブロック塀での壁打ちと、早朝からの市民コートでの練習の甲斐もあり、わりと良い戦績も残せました。
私のテニススタイルは強いサービスや強打があるわけでなく、自分の打球に対して相手がどういう返球するか。予測が最大の武器であります。くるはずの場所にあらかじめ、走っておくのです。
ゆえに「山田さんは一歩も動かずに試合に勝つ」というような歯科大学時代のテニス伝説にも関係しているのかもしれません。
これは人生・生き方にも通じ、時として妄想とも言われかねないが、予測し続ける事が、思考と行動の根底にあります。
車の運転中、大型トラックの後ろにつかないのは、同じ考えがあるからです。
前が見えないのは、怖いのです。

高校時代、生き方の修正したことがあります。
出身中学や父の職業のこともあり、尊大だった時期がありました。
テニス部の同じ学年に8人の部員がいました。私なりには上手く付き合えていると思っていたのですが、明らかに同級生から、嫌われているという感覚が出てきました。
例えば、友達ふたりが楽しそうに昨晩のプロ野球の結果を話しながら、巨人阪神戦で巨人が勝ったと盛り上がった会話しているとします。
しかしその内容は明らかな間違い。
阪神が勝ったと確信があると、ふたりの間に入り、端的に真実をつたえるのです。
するとふたりは、面白くなさそうに、去っていきます。それは真実を伝えたのだから
親切な行為であり、嫌われるはずがないと思っていたのです。
しかし、楽しい時間を遮るのは、嫌われる理由となる。これに気づいた私は、一言でいえば、バカになる事にしたのです。
まず巨人が勝ったよなぁ、とお互いに笑い、そして・・おもむろに「あれ?あの新聞、阪神勝利って書いてあるけど・・
こんな行動を心がけるようにしたのです。
正しい事であっても、伝え方次第で喜ばれない事が身に染みて現在もこの対応法を実践しています。
その頃、運動部中心だが、やや悪ぶっているグループに入っていました。
お医者さまの家なので、友人の家に遊びに行くにも、両親からの制約がありました。
わが家の食卓は両親兄弟の四人、一人一人に料理のおかずが割り振られ、まるで毎日、料亭の会席料理のような食事でした。
大皿から料理を分け合うことをしたことがほとんどありませんでした。
自転車競技でインターハイ群馬代表になった友人がいて、家に遊びに来るように誘われました。
そこは小さな一戸建てが連なる家でした。
風呂に入る事になり、彼と入ると、太って腹が出ていることを思いきり笑われ、風呂場の扉をいきなり開けたのです。
居間に向かって「とうちゃんかあちゃん、ミカブー、こんなデブ・・見て!見て!」ご両親も私の全裸を見て、大笑い。
夕ご飯をご馳走になりましたが、大皿から、食べろ食べろと私の皿に入れてきます。
家庭環境は色々とあるでしょうが、私には実に居心地がよく、実家をあまり好きになれない要因のひとつだったように思います。
(ちなみにミカブーはオレンジ色のセーターを着ていた時、彼が付けたあだ名です)
風貌・顔貌に自信のない私は、ちびデブ。中学時代からの写真嫌いは続き、やせた高校時代の写真も、テニス関係のみならず、写真の枚数は非常に少ないのです。
関西修学旅行もカメラを持たず、人に貰った数枚が高校時代のすべてだとおもいます。
なお、写真嫌いは大学時代に解消されました。

青学時代

テニス狂いとなった私は青山学院大学に入学し、テニス部に入部するも、どうしても水が合わず、退部してテニススクールのアシスタントとなるまでの間、いくつかのアルバイトの経験をしました。
短期間のバイトを探していた私は、人生最初のバイトで、お仕事のつらさを体験しました。そのひとつ。
新聞の求人広告は3行程度。
しかし一週間だけなのに、かなり高給でした。
後輩たちを新宿のコンパに連れていって、見栄を張って奢ったら、月の生活費が一晩で無くなってしまった為です。
そのバイトは、横浜の駅に行くと、仕事現場にワゴン車に乗せていってもらい、働いて、夕方に駅までという肉体労働の典型的な現場でした。
始めは土を掘りだすだけだったのですが、三日目頃には穴が深くなり、シャベルで掘った土を、背丈以上に放り上げなければなりません。キツイと思い、見上げた上の監督は「掘って良いんだよ!!」と一言と冷たい視線。
お昼休みや帰宅後も死んだように眠るというのはこう言うことかという経験でした。
休憩時、ランニングシャツ一枚で休んでいる私たちを見て、子供が「あのお兄ちゃんたち、はだか!」と大声で笑った時、母親が眉をそびやかし、足早に去った時、見栄は張るものではないかもなぁと思いました。

そのほか、歴史的偶然に出会ったケースもありました。
日比谷の洋食の老舗「松本楼」が晴海の博覧会場にレストランを博覧会期間中だけ設置し、食事を提供するらしく、その店作りとその後、ウエイターとなり、終了したら、また取り壊すという、10日間ほどのバイトでした。
店の設営が終わり、明日開店という日の夜、ニュースで・・日比谷松本楼炎上!!
当時の過激派の為か、失火からなのか、記憶にありませんが、翌日、晴海の店に行ったら、日比谷の店で働けないウエイターが数人いて、我らのバイトが即日なくなりました。

思い出話ですが・・・
テニス狂いの私に、前橋市の代表として出場してほしいという依頼がありました。
都市対抗戦というテニス大会だと記憶しています。
前橋市のナンバーワンとして、沼田市のナンバーワンとの試合が組まれていました。
場所は伊勢崎市の華蔵寺公園のテニスコートでした。
相手の選手は、学校の先生で軟式テニス上がりの小柄な選手でした。
第一セットは軟式流のハードヒットに苦しみ、取られてしまいました。
横に数面が並ぶ細長いコートには観客がゼロ!勝ちたいというモチベーションがまったくありませんでした。ただ試合をこなすのみ。
なんと第一セットの後半で、自分の不注意からコートチェンジの際に、ポールからはみ出していた、ワイヤーに太ももをひっかけてしまい、血が流れてしまいました。
集中力を欠く言い訳の材料になるし、わがチームの応援も誰もいない。負けても良いかな?
そう思っていた第二セットの0=2.
ガランガランの観客席の端の方から、一人の少年が現れ、なんと私らの試合のボールボーイを始めたのです。
コートチェンジの時に、「頑張って下さい」と真顔で声をかけられました。
前橋のテニスクラブで時折、話をしたり、少しテニスの指導などをしていた紅顔の美少年です。
その子の見ている前で負けるわけにはいかないと猛然と反撃に転じました。
後陣での打ち合いを避けて、ネットプレーを仕掛けていきました。
中学生だった彼が勝利への神となり、逆転勝ちをすることが出来ました。
事態が好転するには、なにかキッカケがあるように思えますし、彼がラッキーボーイで今でもその運を拝借している感じがあります。青山学院大学入学の際には、父親と共に前橋の実家に立ち寄ってくれて、群馬県テニス協会の副会長をしていた私の父も大変喜んでくれました。
今でも彼のテニスは素晴らしく、本当にテニスを好きであり、愛しているのではないかと思っています。
その彼はいま、私が毎年「みどりの日」に行っているOBデンタルチームテニスマッチ、第一回目からのすべての大会運営を取り仕切ってくれています。
22年連続で行っているこの大会を始めるキッカケは三人の歯科医師のテニスプレーヤーです。
私と愛知学院大と日大松戸卒の三人、御茶ノ水で昼飯を食べた時に、歯科医師会にまだ入会していない若手の先生たちの大会をやろうと言う事になりました。
私は良かれと思う事は実行に移すように心がけているので、まず彼に連絡を取り、どうしたら良いのかと尋ねそして、大会運営を頼みました。
快く引き受けてくれた彼は、参加希望チームへの連絡や組み合わせドローの作成などにその能力の高さを見せてくれました。横浜のテニスコートから品川のテニスコートに移転する時にも力を発揮してくれて今日の隆盛繋がっています。初回70名位で始めた大会でしたが、いまでは十分に盛会な大会となり歯学部29大学中、21大学がエントリーをしてくれるほどのなったのは、彼のおかげだと感謝しています。

青学時代に戻ります。

悶々としていた数ヶ月の後、世田谷の芦花公園にあるテニススクールに入学しましたが、一日目のレッスンの直後、コーチに部屋に来るように言われ、次週からはコーチをする事になりました。
大好きなことでお金を頂けることは、幸運だとおもいました。
若い女の子たちにつけられたあだ名は「西郷先生」。似ているとも言われていたので、納得するしかありませんでした。

スクールで飛び交う言葉は・・「あらぁ、ごめんあさ~せ!」。
有閑マダム生徒たちのセレブ世界を垣間見ることになりました
田舎出身の若者に、新しい社会の一端を教えてくれました。
コーチ陣も有名選手ばかり、テニス好きな私にとっては幸せな時間でした。

人生の転機

2年半くらいテニスコーチをしていましたが、実家の事情により、医療系の学校・医学部に進んでほしいとの事でした。兄がまだ薬学部時代だったので、私にお鉢が回ってきたのでしょう。

父に聞きました。「歯学部でも良いの?」「あぁ~良いよ」

テニスが好きで好きで、いずれはテニス関係の仕事につければ良いかなぁと考えていた私には、まさしく大きな転機。
歯学部で良いのかと父に聞いたのは、理由がありました。
当時、神楽坂の風呂なしのアパート住まいの私は、近くの銭湯に行くのが習わし。
そこで隣部屋の住民と出くわす。ほぼ同い年くらいの男子たちです。
和製のフォークソングが好きなようで、夜な夜な音楽が流れてきました。
私もフォークは好きだし、ギターを弾くのも好き。
まるで対抗するように、歌いまくりました。

行き来するほど仲良くなり、聞けば、同郷、群馬県出身の歯科大学生、野球部の二人住まい。親戚同士との事。
人気のある若者たちらしく、多くの若者の出入りがありました。
そこに遊びに来るテニス部と知り合い、時々、日本歯科大学のテニス部に教えに行く事になったのです。
そこで、ラッキーな逸話がありました。

高校時代の前橋高校二年生の時、硬式テニス、群馬県ジュニアランキング2位になりました。
その結果、一位の太田高校のM君と二人で、東京、東伏見コートで行われた、関東高校選抜大会に遠征した時の事です。

茨城県出身の女の子と神奈川県代表のシングルスを観戦し、二人とも、茨城の女の子を応援しました。わたしらのお気に入り。
対戦相手の神奈川、鎌倉の選手は美人で洗練されていて強いのです。
かたや、茨城女子は、守りが中心の田舎によくいる乙女。
鎌倉女子は慶応高校や立教高校の男子に応援を受けている。私らと彼女は、地方出身者同志の共感かも知れません。
対戦ドローで確認すると、漢字二文字の面白い名前。読み方が定かではありませんでした。
その試合の鮮やかな映像と、読み方の解らない名前がとても印象に残りました。

日本歯科大にコーチをしに行った、とある日曜日。小金井にあるテニス部のコートで練習を一通りこなすと、見かけた事のない、上手い女子選手がいるのです。
聞けば六年生、国家試験対策でなかなか練習には来られないが、ナンバーワンだと聞きました。
・・・だから・・上手いはずだ!
帰りに数人の部員と彼女と喫茶店に行った時、
彼女「山田さんは群馬の前橋高校、私は茨城の水戸一高で、同じ年齢ですよね」
「えぇそうです。・・・水戸一高と言えば、東伏見のテニスコートで応援した女の子がいたなぁ~」と話すと・・
彼女「私、○○○と言います」
私「だから○○という・・・」
彼女「あの~、漢字では○○と書きますけど
・・・」
「げぇ!じゃあの時、あのコートで北鎌倉の▽▽さんと戦っていたのは貴方??」
「えぇそうです」
私の苗字に関する知識不足で、読み違えて憶えているという、何とも情けない結果ではあるが、記憶の片隅とのご対面でした。
その彼女が同窓で同じクラブの先輩になるとは、人生異なものであります。

兄は昔から「おまえはツキだけで生きている」と言います。
いまでも自分自身は「俺、ツイている。・・ツイていないよりは良い!」
今までも、これからも、私の生き様の根底に流れていると思うのです。

日本歯科大学時代

日本歯科大学入学などに際しては、隣の同郷先輩方、その関係者、勉強を教えてくれた群大医学部のテニス部の親友たち。その方々の大いなる協力と支援があり、幸運にも日本歯科大学入学を果たせました。

入学後、テニス部に入部。
しかしコーチに行っていたクラブに新入生として入部するので、うまく行くだろうかと心配しましたが、先輩のひとりが、お前を後輩として対応すると明言してくれたので、助かりました。簡単にバカを通せば良い環境を作ってくれたのです。男気のある先輩でした。
同級生にも恵まれ、テニス部生活をスタート出来ました。
一年生の時から、レギュラーを任され、歯科大学生のレベルでは、あまり負ける気がしませんでした。
夏に行われる全国歯科大学体育大会、テニス部門が九州の博多で行われました。団体戦のみなのですが、先輩たちや同級生の応援もあり、わが校の初優勝を体験する事が出来ました。

一年生の秋、おもしろい事がありました。
当時、テレビで大人気の番組がありました。
「パンチDEデート」という素人参加番組です。司会は桂三枝師匠と西川きよしさん。
そのふたりがカーテンを隔てた席に男女を呼び込み、軽妙なトークで笑いを誘うものでした。

その番組が本を出版したらしく、アパートの友人が買ってきました。本の後ろに出演者募集の用紙が付いていて、それに書き込んで受かれば出場できるという企画だったと思います。
アパートの歯科大仲間。
硬式野球部、ラグビー部、空手部、歯科技工士学校生、そして私の五人が用紙をコピーして書き込み、応募したのです。
体育祭の頃だったから、10月の終わりだったと思いますが、電話が鳴りました。
相手「しょうさんですか?」
私「はい?」声に聞き憶えがありません。

晶をしょうと読み、ニックネームになっていて、番組応募用紙にかきこんだのです。
相手「私、関西テレビの者ですが・・・」
世間知らずの私は、番組はフジテレビだと思っていました。
その内容は、急だけれど明後日、土曜日に銀座で面接をしたいとの事。その日は体育祭。
歯科大初めての体育祭を休むわけにはいかないとお断りをしたのですが、かなり強引なお誘いです。
雨ならば行けると思いますと話して切りました。
当日は小雨。天気予報も午後には崩れるとの事。
小金井にみんな集まったのに、雨脚は強まる一方。先輩に実はと話したら、面白そうだから行ってこいと言います。
その日のいで立ちはテニス部で作ったお揃いの赤トレーナーと白ジーンズ。まさかの展開だが興味もあり、銀座に向かいました。
場所は銀座と言っても築地寄りの松竹ビル。
探して到着し、通された部屋は大きな100畳以上はあろうかと思える会議室。
大きいテーブルの周りの椅子に座っているのは3人だけ。ガランとしていました。
その3人は全員スーツ姿とジャケット。
トレーナー姿は私だけ。あまり来る気ではなかったのだから仕方がありません。
隣部屋に案内されて挨拶した後、座った私への最初の質問は「パスポートは持っていますか?」でした。
私「はっ?持っていませんが・・・」
意味が解らない。

実は今回のオーディションは正月の特別番組でハワイ収録の為と言います。
それでパスポートの意味が解りましたが、まさか私がと思っていました。
後色々な質問があり、指で作った四角い穴から私を舐めまわすような仕草には閉口しました。

最後に「今日は土曜日ですが、明日、日曜は家にいらっしゃいますか?」との質問。
ええと答えました。
グイグイと押してくる右端の人に念を押され、白ジーンズについた塩辛のシミを見ながら、落ちるとしたら、身なりだな!などと考えていました。
次の日には一日中家にいて、電話を待っていました。しかし何も連絡は来ません。
月曜日は学校に行きました。
友人にどうだったかを聞かれましたが、昨日電話がこなかったから、落選だろうと言いました。
別に期待も薄れたその夜、ベルがなりました。
連絡が遅れたが、受かったので至急パスポートを作ってほしいとの事でした。

その結果、人生初のハワイ旅行。
そして人生初のテレビ出演となったのです。

ワイキキの砂は熱く、人生初のアロハシャツ購入。
シェルハウスと呼ばれる屋外公会堂のような場所での収録はただただ熱い。
番組最後のご対面の前にカーテンの穴から男女を覗き、雰囲気を有名人の誰かになぞらえるのですが、私は、桂三枝師匠いわく
「北大路欣也さんと言うよりも・・ヤシの実、ココナッツ割り!」
上手い事をいうものだと思いました。
嬉しい事にハート形のライトも点灯し、旅の後半は楽しいものでした。

夏のテニス大会でのわが校初の優勝とテレビ出演が相まって、有名人的な扱いになって行きました。
歯科医師になりたいという思いは強くは持たず、テニス三昧。流れのままに国家資格取得で歯医者さんになりました。
その本音はテニスができれば良い!という短絡的な青春でした。

日本歯科大卒業後、先輩の紹介で御茶ノ水の東京医科歯科大学にお世話になり、仕事とテニスに勤しんでいました。
入局5年目、恩師の教授に声をかけられ、長崎大学に出向してくれないかという話がありました。
教授は経験豊かな先輩医局員に、長崎赴任を打診したようですが、色々な理由で断られ続けた結果、私らの学年にもお鉢が回ってきたらしいのです
その事で、同期の一人が昼飯を食べながら、私にいったのです。
「長崎に行くなんて、バカですよねぇ!」
彼の論理に納得いかないしと反発した私は、まだ独身だし、長崎に興味もあるし、行っても良いなと思っていました。結局一年だけ長崎大学に行き、教育と研究を手伝う事になりました。

父の教え「人に頼まれた時に出来る事はしてあげなさい。してあげたくてもできない時もあるのだから・・・」その言葉を体現しての長崎時代でした。

 

赴任して、しばらく面白かったのは、人の顔や体形・雰囲気には、職業適性があるのかもしれない。親の遺伝子のせいなのか、初めての町のせいか、知る人がいないので、私が話をする前に、色々な職業だろうと言われた事です。

先輩に連れられて行った飲み屋さんで、ママに「土建屋さん?ごっついし。」
長崎に住みだした時の大家さんに「植木屋さん?」鉢植えを持っていて・・仕方なし。
プールの更衣室で、パンツの紐がきつくてほどけない小学生。助けてほしそうな顔で私を見上げるので、仕方なく手伝うと「お兄さん、なにやってんの?畳屋さん?」意味が解らず、その発想には笑うしかなかったです。
その他、「トラックの運転手さん?」「造船所に来た人?」など、残念な事に、私が知的職業?の人に見られることはありませんでした。

忘れがたいのは、長崎大学で初めて診察させて戴いた患者さんが同性の山田さん。その第一声。
「しぇんしぇい、ここば、ほげとっとでしょうが。しぃびくとです・・痛たかとです」

私「すいません看護婦さん、通訳お願いします」
郷にいては郷に従え主義の私は、これは長崎弁ば憶えんといかん!!
そう決めた私はすぐに行動!
歯の痛みを訴えて来た若い男性患者さんで、学生に割り当ててみたら、簡単な処置で見事痛みが消えた水産学部の学生に頼みました。
コーヒーを奢るから、長崎弁を教えて!!と。
家族では両親と兄は、上州弁を話しません。家で「・・だんべ」を使うのは、親せきの中でも私一人。
上京して40年以上、今でも年下にはほとんど上州弁を使うのが私の生き方です。
長崎での印象は、やはり雨でしょうか。
東シナ海に面しているためか、雲の流れがとても早く感じます。土砂降りの雨も経験したことのないような激しさでした。
逆に真夏の太陽はギラギラを通り越して、キーーンと言う感じ。日本の最西端だけあって、日の入りの時間が遅く、夜九時近くまでテニスボールを追うことが出来ました。
都会と田舎の時間の流れは明らかに違うもので、信号機の変わる時間の長さには戸惑った記憶があります。朝一番で秘書さんにコピーをお願いして、一時間後くらいに取に行ったら、まだですと言われて慌てました。
のんびりしている部分の大半には、当時驚きました。
人の頼み事に対して、即座にダメですと笑顔で断る事にも大きな違和感を覚えたものです。
食べ物に関してはすべてが美味しいと感じましたが、魚が新鮮過ぎるには、柔らかい食事好きは私には、刺身がぷりぷり過ぎて驚かされました。

帰京する予定の年の二月、医局対抗のバレーボール大会。
カッコつけてスパイクの着地に失敗して、強くねじってしまいました。次の日に医学部の整形外科を受診たら、骨折と診断され、ギプス装着。学生たちが興味半分にギプスに落書きして、外すときには余白が無いほどでした。

杖と石膏ギプス使用して、アパートの4階までの上がり降りに難儀し、人生大転換のひとつの「引き金」となったのかもしれません。

でも、短い間でしたが、医科歯科大に再赴任の為、車で長崎大学歯学部の玄関を出発する時、担当していた六年生や五年生、テニス部などが、駐車場や植え込みなどまで、溢れるほどたくさんの見送りに来てくれたのは、長崎時代、間違った事はしなかった証として嬉しかったし、間違いなく楽しい長崎生活でした。

四月一日に御茶ノ水の大学医局に顔を出しましたが、何とも言えず元気が出ない。引っ越してきた部屋の箪笥が曲がったままでも、ちゃんとしようとする気にならないのです。自分はこんなにぐうたらだったかと思い始めていました。
何か変?何か変と思いながら、数回、鍼や指圧にも行ってみました。
どこかが強く痛むことはないけれど、腰痛が少々。

そして5月の始め、真夜中の3時頃、生まれて初めての大・大激痛に見舞われてしまったのです。
動こうとすると左の尻と足に、激痛やら熱感を感じる厳しい痛み。

今まで、ちゃらんぽらんに生きてきた私にバチが当たり、苦難を神が与えたのかとも考えましたが、ここからの私の人生は、180度違う生き様になって行きました。

闘痛から今日まで

普通に暮らしていた人間が真夜中、寝ている時に激痛に見舞われるという事が、私には理解できません。

前日に運動をしたとか、どこかにぶつけたとか、理由らしきものがあれば、そこに責任転嫁ができる。しかし布団の中で突如としてでた痛みとしびれにおいては、訳がわからないのです。罰が当たったのか。それも思い浮かぶものがないとおもいました。

朝一番で辿り着いた、御茶ノ水の医科歯科大の整形外科では椎間板ヘルニアとの事です。

しばらく前に、軽い腰痛で診察して頂いた先生から、身体を計測して製作して頂いた、金属入りのコルセットを渡されましたが、それを巻くと残念ながら痛みが増してしまいます。

その直後に、埼玉の医学部にいる兄に電話をかけると、お前は整形外科の教授にテニスを教えていて面識があるのだから、直接指示を受けた方が良いと言われ、電話が通じて、向かった先の、埼玉の医科大学病院の教授には外来の診察室に通され、MRIとレントゲン検査を指示されました。

MRI検査は横に寝て、小さなトンネル状の空洞を通り抜けねばなりません。

激痛です。見えっぱりの私は、近くに先生がいる時は、平気そうに受け答えをしましたが、照射室に人がいなくなると大声をあげて耐えました。

「痛たくねぇぞ、痛たくねぇぞ!!!」

外来の診察室に戻ると、多くの患者さんたちでごった返していました。

言われた通り、壁際のベッドに横向きに寝ていると看護婦さんに、下着ごとツルんと衣服を脱がされお尻丸出し状態。

気配でしかわかりませんが、アルコール消毒の後に、狙いすましたような注射をされました。

あら!不思議!症状が無い!!

さすが!教授先生。凄い腕だ!

腰痛症と診断して戴き、二週間程度の入院を指示されたので、感謝を伝え、八人部屋の病室に入院しました。

あ~~~良かった。この病院に来て良かったと思いました。

目覚めたのは、次の日の早朝。二十時間近く眠っていた事になります。

症状は・・・激痛のまま!

でも、昨日の注射一本で痛みが消えたのだから、信じて良いんだ!と思いました。

二日目に川越の病院から腰痛専門の助教授が診察してくださり、手術の必要はない!と言い渡されると半分嬉しく、半分失望があったように感じました。

手術をして治るならそれが良い!でも・・怖い!

入院中の闘病はいずれまた書き込める時期もあると思うので、割愛しますが、それは、それは凄まじい痛みとの闘いで、夜の無意識の行動を同室の少年に教えられても全く記憶がないくらいに、のたうちまわったようです。10日を過ぎたあたりには、歩行器にすがれば数メートル動けるくらいになり、実家が医院なので退院の許可もさりげなく言い渡されました。

退院当日だったと思いますが、教授からの直接指示を受け、私だけを担当して頂いた医局長の先生に廊下で声をかけられました。

先生「山田さん、腰痛に関しては、西洋医学だけが治療法とは限りませんよ!」私「えぇ??・・・・、はぁ~ありがとうございます」

その光景は今でも、はっきりと思い出す事が出来て、忘れられません。

西洋医学の家に生まれ育ち、それを信じて来た人間にとっては、とても意外な言葉でありました。しかし退院する私をわざわざ呼び止めて、真剣なまなざしで示唆してくれたことは、医療人として素晴らしい先生であったと思っています。

当日もまだまだ強烈な痺れと痛み、それと間欠的に襲う灼熱痛に変化は見られませんでした。

自宅闘病

自宅に戻り前橋にある病院勤務の東大整形外科出身の先生に、筋膜炎という診断名を言い渡され、合計三つの病名を頂き、三人とも安静の指示でした。

内科医の父は当時、興味を持って使用していた良導絡という電気針のようなものを施してくれました。その施術には驚かされました。電気の通りやすいところをマークして電気針を刺したまま、寝ていると、4~5分もしないうちに体が動かせないのです。

手を少しずつ動かして、ようやくインターフォンを押し、助けを呼び、針を外してもらうと不思議と全身が動かせるのです。その効果、鍼麻酔にも通じると思いますが、その驚異的反応に驚かされた気がしました。

専業主婦の母は“六三除け”というらしき、おまじないの類。お豆腐を賽の目に切ったものをスプーンで何口かで食べてみなさいと言われ実行。

これには、なんの変化もなく、言い伝えに頼るのは母なりの選択だったと思います。

私の家には、仏壇と神棚と十字架と小さい神社もどきがあり、そのすべてに毎朝母はお祈りをしていたようです。

寝たきりの闘病生活がマンネリ化しはじめた頃、金ピカの高価そうな袈裟を着たお坊様がお弟子さんらしき人を連れて来ました。キリスト教信者ばりばりの父が、呼ぶならば牧師さまだろうと思っていたのですが意外な選択肢でした。

お坊様は寝返りもままならない私に、うつ伏せになるように指示。

おもむろに寝間着をパンツごと脱がされて、お尻や腰の部分を榊(オサカキ)で叩いたり撫でたりしたようです。お経を唱えながらであるから、少しはご利益があるかもしれないと願いました。

10分前後で終了して、そしておもむろに差し出したのは、仏さまらしき姿が印刷された、3センチ四方の和紙らしきものです。

それを一日一回飲めば治るとの事。

残念ながら、効果は見られず、信心不足を反省したのです。

西洋医学者の父が宗教に頼ったのは子供を思う気持ちからだと思いますが、後日、幾ら支払ったかを聞いたとき、数十万円と聞いて、坊主○儲けという言葉を思い起こした不届き者です。

千葉の同級生の電話では、誰でも守護霊を持っていると言います。拝んでお願いするように言われました。寝たきりの37日間、思いつく神様たち全員に「この痛みやしびれが取れる方法があったら、必ずその理由を調べてみせます。だから・・だから助けて下さい!」とお祈りをしました。

もう自宅では埒があかないと、私も家族もおもい始めた時、郷里 群馬県にある草津温泉の病院入院の案が浮上しました。父の親友らしき先生とは簡単に話がつき、6月13日の金曜日。入院予定日。激痛発症から37日目。あらゆる手段を試したつもりでした。

この日が私の人生の大転換点の記念日となりました。

大転換点

三階の部屋の窓から飛び降りた方が“楽”だなぁと思いはじめ、昔からいる看護婦さんに、ここから飛び降りても木に引っかかって死ねないよと言われて、草津に行けば何とかなるのかと考えた6月13日の金曜日の朝。

新聞に載っていた広告を見て、看護婦さんが購入してきてくれた一冊の健康本「腰痛・我慢すれば悪くなる」を渡されたのでした。

お医者さまではないG先生と言う人が書いているし、疑い深い私は、半信半疑で速読したが・・・たった一行に目が止まったのです。

「焼け火箸を刺されるような痛みが三カ月で治った」・・この一行です。

とても熱い痛みについては、西洋医学書に記述はほとんどありませんでした。

医師の家庭ゆえ、書棚にある、専門的な医学書は読み漁ったのですが・・・

思い起こせば、この一行が目に入ったのは、まだまだツキに見放されてはいないかなと思い返します。

その本の後付けに、先生のお弟子さんであろう治療師の治療所・保健指導士一覧と住所が載せてありました。K先生という人を見つけました。

群馬県に一カ所だけ治療所があるようです。枕元に引いてもらっていた電話で問い合わせてみました。

K先生「今日はお休みなんですよね!」やはり13日の金曜日のたたりか?

実はと続け、私は思いの丈を、これまでの経緯もお話しました。お昼には草津の病院に出発する事など・・・

K先生「まぁ出かける前だから・・来てみない(上州弁で来てみなさい)」

父に相談すると・・むぅ~~まぁ行ってみようか。

内科医の父とたまたま帰郷していた産婦人科の兄と三人で行く事になりました。

鎮痛剤をしこたま飲み、肛門に座薬を入れたにもかかわらず、階段を下りるのに一苦労。激痛との闘いです。

車の後部座席に横たわり、痛みの少ない姿勢で、50分くらいの辛抱でした。

辿り着いたのは、公園裏の長屋形式の治療所。なにか医療とは程遠い感じです。

通されたのは、和室6畳二間続きの部屋。普通に正座も胡坐もかけない私は、片手をつき、横座りで、楽な姿勢を探していました。

K先生は言ったのです!「右がずれている!」

んんんぇ??心で叫んだ「痛いのは左だぜいぃ!!」

薄い布団に横たわるように言われたが、これも一苦労でした。

うつ伏せでの施術の際には、涙がこぼれるほどの辛さ。一通り終わり、間仕切りの鴨居にぶら下がるような姿勢を指示されて、おもむろに取り出した茶色のゴムバンド。先生がお尻にきつく巻いたせいか、それだけで痛みが増したのです。

K先生「はい、歩いてごらんなさい!」

私 「歩けるわけが、無えだんぇ!!!!」

足を踏み出すと・・あれ?・・あれ??歩ける。しびれがない!!

その頭髪の薄くなった初老のK先生が・・・生き神様に変身した瞬間でした。

十日間くらいで治るとおっしゃって戴いたが、これはまったくの嘘と言う事でした。

1週間ほどは希望が持てて、精神的には快適で、ゆっくりと動くことは可能になりましたが、鎮痛剤を使用する事は変わりません。大きなぶり返しが十日後頃に、一カ月後くらいに左膝の強烈な痛みが出て、そのたびに強い鎮痛剤を家族の父や兄に打ってもらい、乗り越えました。一日いちにちと薄皮を剥がすように、変化をし、自分で車を運転できるようになったのは、一か月後くらい経ってからでした。

でも治療に通う途中でしびれが強くなると、田舎道の田んぼ横の交差点で車をとめて、ゴムバンド腰回し運動をして、少し症状を収めてから、運転していました。

家に帰れば、腰回し運動をするか、横になるか。二つに一つ。

母に「お前、なんで座らないの?」

うろうろしていた私に聞きました。

「歩いている方が楽なんだ」と答えました。

なぜこの方法に耐えられたかと言われれば・・他に頼る方法がないからです!!

私が大学病院の医局に戻ったのは、九月一日であるから、約三か月間でした。

K先生の師匠であるG先生の著書の多くに書かれているのは「100回治療を受ければ治る!」でした。

私はその100回を一日2~3回受ければ、治癒期間が短縮されるのではないかと考えました。

恩師の大学教授も治ってから帰ってくれば良いとのあり難いお言葉。

ほぼ毎日数回の受療のためなのか、治りたいと願う一心のゴムバンド腰回し運動のせいなのか、その当時、定かではありませんでしたが、とにかく動ける、痛みに耐えられるくらいには回復できたのです。

尾籠な話ですが、洋式トイレに座るとすぐに痺れがでてくるので、自分のトイレの恰好を空中トイレと名付けていました。

座れるようになったのは、半年後くらいで、手技療法は週に一回。

今は、一生続けようと思っていた、ゴムバンド運動も二年半後には、ずぼらになり、ほとんど回していない不埒者です。

4万人近い腰痛患者に接してきて、今こそ思います。

施術を頻繁に受ける事が不可欠ではなく、ゴムバンド運動をする気力・体力と骨格補正力が疼痛解消の決定打なのだと・・・

ゆがみを調べ続けた経過

山田クリニックとペルビック健康センター

大学病院や診療所で歯科の治療を続けながら、患者さんの行動や姿勢、利き手利き足、癖など、ゆがみとの関連を考え続けました。

大学病院勤務の後、八王子の病院、海老名市の大病院、各々の歯科医長を歴任しましたが、なぜ痛みしびれが解消したのかを調べるためには、医科によるレントゲン写真を撮影し、その画像を解析する必要性を感じていました。

骨格のズレを語るのであれば、三次元的な解析が必要だと思っていました。

医科歯科大学で研究を手伝った時に、レントゲン写真を使って、研究する時には、術前と術後の写真撮影の条件を同じにして比較する必要があります。

その二次元の平面画像から、骨の立体的変化を類推するのは、難しい事ですが、三次元的な考察は不可能とは思わず、30年近くの時間はかかりましたが、結論に到達できたと思っています。

兄(産婦人科医)も私同様、ゴムバンド運動と施術にて腰痛の改善を体験した人間として、その光の当たらない治療法に携わり、多くの人々を助ける意味で協力をしてくれたのです。

1989年、4月に新宿区の江戸川橋駅近くで開設した山田クリニックとペルビック健康センターで、腰痛解消の論理を解明すべく、レントゲン写真にてゆがみを診断し、旗振り役にもなってくれました。

レントゲン写真撮影の時の姿勢は、うつ伏せで本人と看護婦さんが、いちばん真っすぐと感じる位置で撮影しました。
この姿勢の発想は、今になってみると、立位や上向きでなく腹臥位で撮影したことが、ゆがみ解明の足掛かりになったと考えています。

しかし、開業はしたものの、銀行さんも税理士さんも、患者さんは来ないし、月々の人件費やビルの賃借料などを考えれば「先生!ここは百%、いやそれ以上の確率で・・潰れます!!」と10か月以上言われ続けました。

医師の兄、看護婦さん1名受付一名のクリニック。

健康センターは治療師5人、受付1名、事務1名。総勢10名の所帯。

小さな4階建てのビル一棟貸しで借りて収入はほぼゼロ。

そんな状況だったのに、なぜ存続できたか、いまではあまり記憶にありませんが、若い従業員や治療師のみんなが信じてくれた事、それが一番大きい要因だと思います。

開業初年度の晩秋。夕刊新聞に取り上げて戴いた、数行の記事を見たという、早朝ラジオディレクターから出演依頼が来ました。

運よくこのラジオを始めとして、マスコミも取り上げてくれたために、大げさではなく患者さんが殺到し、その激痛の解消という実証例などには、事欠かず、ゴムバンドの効果には目をみはるものがありました。

兄が著者となり、私も手伝い一冊目の本を出版する事が出来ました。ラジオパーソナリティーの人気とも相まって、週間ベストセラーに選ばれて、7万冊を超える本となりました。講演会の依頼も多く、担当は私です。
実体験や患者さんたちの言葉などを織り込んだ講演は好評で、300カ所以上、させて戴いた記憶があります。

しかし治療に追われ、データの蓄積や解析に時間を費やすことが困難でした。

この当時、骨盤のズレという理由の旗振りしかできませんでした。

その頃の印象では、「ゆがみは痛み・痺れの原因になり得る」でした。

今考えれば、左右のゆがみしかわかっていませんでしたから、日本中から集まる激痛患者さんに、我々の経験からして、痛みが消えるはずという言葉を信じてもらうしかなかったのです。

痛みがぶり返したら、その原因必死で考え、信じ続けて戴くより、方法がありません。

しかし金銭的には、十分な収入があり、その配分で兄と諍いが起きました。

仲裁に入った父が新たな協力者となり、私は飯田橋で、兄は高田馬場で同じような診療体制ですが、違った道を歩き出したのです。

このペルビック健康センターの時期に、多くの激痛患者から色々な主訴や治療の反応に関して学んだ事もたくさんありました。

滅多にないと思いますが、詐病(うその病気)も経験しました。

六十歳後半の女性でしたが、二階にあった治療室の窓から外を見ていると、元気にすたすたと道を歩いてくるのですが、クリニックに入るや否や、苦痛の表情になります。

その事を彼女に告げると、しらを切るのですが、複数の患者さんたちの証言で助かりました。

世の中には、真面目な患者さんばかりではないと痛感しました。

飯田橋内科歯科クリニックにて

父と母が神楽坂住まいとなり、移転する頃は、患者さんも少なくなっていましたが、場所が近いせいもあり、移転はスムーズに行なわれました。

私は父の協力を得て、レントゲン写真のデータ解析に邁進する事ができました。

骨格は立体構造であるから、3次元的な解析が必要であることは、百も承知です。

ゆがみは左右のズレと定義付けることができて、町ゆく人々を一目見た時、ゆがみの判断がつきやすいのです。

この時期に出版依頼が舞い込んで、私の初著書「腰痛撃退 ゴムバンド健康法という本を出版することが出来ました。
概ね1万5千部の売り上げという事で、ラジオとのコラボレーションの威力に改めて驚きました。

その評判を聞きつけたテレビ局が、街角で体調不良の人を見つけましょう!みたいな番組に借りだされ、クリニックも繁盛しました。

北は北海道、南は石垣島まで知れ渡って行きました。

2000年を迎えるミレニアムに前後して、レントゲン写真から、立体構造における上下の偏位・かたむきのデータを表すレントゲン写真での解析法を見いだす事に成功しました。

治療師のみんなが夜遅くまでレントゲン写真を定規で計測し、その母集団は1500例を超えました。

有意差(信ぴょう性根拠の統計処理)のあるものが出来上がったと思っています。

その骨格の上下のズレ、かたむきは姿勢の良さ・悪さとリンクし、若々しい姿勢と年寄りじみた姿勢を、数値上表すことができると確信し、言い方を変えれば、骨盤年齢と置き換えられるかも知れないと思っています。

実年齢が高齢なのに、若々しく見える人。若いのに高齢者のような姿勢やしぐさ。その基準になり得ると考えます。

これと並行して、骨盤のY字癒合部に偏移が見られる女の子たちの特徴的なレントゲン写真の考察と、ある患者さん親子の経験を礎に、拙著「生きづらい若者たち」を20001年に出版しました。

いま読み返すと、中途半端な片肺飛行に他ならないとも思います。

拙著「生きづらい若者たち」副題(四角い骨盤とY字癒合)というものですが、

四角い骨盤の頻度は、元々かなり少ない事と最近の教育の中にダンスなどが必修となった為か、骨盤を取り巻く筋肉の発育が強まり、運動量が増加したので、この四角い骨盤は減少しているのではないかと考えています。

私が 「ペタンコ座り」は幼少期には良くない姿勢だと、声高に叫んだのも少しは影響したのかもしれないと思ってはいるのです。

本を出したいと思った、もう一つの驚くべき経験

たまたま同時期に来院した二人の男の子の腰痛患者さんがいました。

共に16歳です。

一人目は母親とふたりで来院しました。

小柄な彼は、無礼と思えるほど、態度や姿勢が悪く、じっとしていません。

髪の毛を茶髪に染めて、歯並びの悪い顎も小さく、腰が痛いからとベッドに寝そべり無礼千万の態度です。

突如、私の心の中の、力ずくで削除していた中学時代の記憶がフラッシュバックして、寒気すら感じました。

ちびデブ体形であった私をいじめていた三人組の中の一人で、もっとも嫌であった人物とその少年は瓜二つ。

背が低く貧弱な体で、大きな体格の強い者の後ろにいて囃し立て、自分では勝てない相手に、他人の力を借りて、人を「いじめる」・・・最悪な人間です。

正面切って暴力を振るった大柄のふたりの人間は、ある意味で正々堂々と、私以外にも、いじめをしていました。

体格など気にせずに、気に入らない者に対して、行動を起こしていましたから、

みんな知っている要注意人物でした。

ただし小柄の彼は違いました。よく笑っている子供でした。

自分より大きい人、強そうな人には関知しないふりをして目立たないのです。

しかし彼よりやや小さい私をいじめる時のみ、笑顔は消えて、彼らと一緒になって便所へ誘うのです。

ズルい・きたない・せこい・闇の力・・どんな形容詞でさえ表現できないほど、理不尽さを感じて、大嫌い!リベンジすら願う対象人物でした。

患者で来たその少年が記憶の中の彼と、重なってしまったのです。

平静を装った私の質問にも、答える事が億劫な様子で、母親の方を見ては顎で返答を指示しているような有様です。

母親はご主人と離婚していて、高校も転校し、不登校気味と言いました。

腰痛が主訴なのでレントゲンを撮ると、骨盤の画像では、骨端が未発達。

この年齢の人間にはめったに見られない画像です。

大人の骨盤など成長を終えた骨はレントゲン画像では、輪郭がしっかり白く映るのが普通です。

彼のものは、まだまだ成長過程の骨で、ぼやけて映り、大人になっていない画像そのものでした。

大人ぶってはいるけど、まだ子供!

私は彼の画像を診ながら、怒りに近い感情を抑えながら、彼に言いました。

「母親に抗っても、君の骨格はまだ子供。子供のくせに、お母さんに歯向かったり、いきがるのではない」。と多少感情的とも思われかねない口調で言ってしまいました。

1週間後、彼はふたたび母親と来院しました。

大分良くなったようで、簡単に会釈をして、治療室へ行き、母親が残り、私に小さな声で言いました。

母「先生ありがとうございました。

あの子、この間、食事の支度をしていた私に後ろから抱きつき、ありがとね!と言ってくれたんです」と涙声。

医療は患者さんを観察する事が大事だとは言え、自分の過去の記憶や感情に流された感があり、言い過ぎたと反省していたので、かなりホッとしました。

なにかの機会があれば、人は変われるものかも知れません。

数日違いで、別の腰痛が主訴の男子が父親と共に来院しました。

予診票の住所は国家公務員宿舎。職業欄に書かれた彼の高校は超有名な文武両道名門進学高校。中高一貫教育で文武両道の男子校だと思います。たしか体育祭には、褌ひとつで棒倒しなどの競技をすると聞いた覚えがあります。

歯や顎の発育のバランス良くも良く、昭和の雰囲気の少年です。

姿勢、受け答えも申し分がない。的確に自分の自覚症状を説明します。

横に座る父親もうなずきながら満足そうに見守っていました。

私は、「失礼ですが」と前置きし、父親にお勤め先を問いかけると、警察庁ですと言いました。無礼ついでに聞きました。・・・東大卒の官僚ですかと?

えぇ~まぁと言葉を濁しましたが、明らかにキャリア官僚さまでしょう。

堂々たる体躯、風貌。権威そのものと言う感じでした。その上、謙虚。

息子さんの骨格は、大人らしく立派。レントゲン写真でも、多少のゆがみでしかありません。

数回治療さしてみたらどうかと伝えました。

その彼。二度目は、一人で来院し、明るい顔で、症状が改善した事を要領よく話してくれました。

私も高校時代、筋肉性の腰痛を経験しましたが二日で消えました。

しかし彼らが、父母を伴い、わざわざ遠い私のクリニックを受診すると言う事は、安静では痛みが取れなかったという事でしょう。

もしも彼らがゆがみに辿り着かないで、安静を続け、悪い姿勢を受け入れたとしたらと思うと、ぞっとします。日常のひょんな出会いは人生を変えかねない大事なものかも知れないと思います。教育環境の違い、家庭環境の違い。

さまざまな違いはあるでしょうが、健康に関しては平等が良いのではと思ったキッカケとなりました。

歯科医師向けの講演会・講習会

この頃に、クリニックの経営サイドからの意向で、歯科医師向けの講演会をしてほしいと頼まれました。

歯科医師でありながら、内科の協力のもとに、もう一つの国家資格・あんまマッサージ・指圧師として、ただひたすら腰痛の解消理由を調べ続けていた最中です。

集まってくれた歯科医師の先生方は、勉強熱心ですから、色々な講演会に参加して視野を広げる努力を惜しみません。

私にできる事は、歯科医療と身体のゆがみの関連についてですが、まだ研究途中ですし、ゴムバンド運動と歯科医療との関連はあるだろうとは薄々気がついてはいましたが、結論が出ていない時の講演会・講習会ですから、かなり後ろめたいものであったと反省しております。

歯科医師の先生方にも、骨盤に対する手技療法を伝え、少しでも腰痛患者さんを救って欲しいと願っておこないました。

経営サイドの目論見通り、収入は増えたようですが、私には関係ありませんでした。

その上、歯科向けの教本的な書籍を作る話が浮上し、「バランス医歯学」を出版しました。
研究完了前の本なので、いま思えば不備な箇所が多いと感じています。

ただし、中途半端な感覚のある講習講演会でしたが、心に残る事がたくさんありました。

医療に対する真摯な姿勢がみられる先生方が講習会に参加をしてくれて、今もその真剣なまなざしと汗びっしょりの実技講習が忘れられません。

その先生の中には、開業している地域の健康を守るトップリーダーとなり得るような資質と才能をお持ちの先生もいらっしゃるように思えて、私の大切な財産だと感じています。

神に見捨てられなかった・・・ねじれの発見

2011年、左右のゆがみと上下のかたむきが解り、残りの前後の指標が進まず、行き詰っていた私に、神様が手を差し伸べてくれるような事が起こりました。

まさにターニングポイントです。

久しぶりに早朝のラジオ番組に出演してしばらくしてからのことでした。

埼玉県の群馬寄りにお住いの58歳、男性。がっちりとしたその人は押し出しが強く、やや一方的に、不調の経緯を語ってきました。

20年近く、腰痛に悩まされ、埼玉の大学病院の整形外科、近くの整形外科さん、指圧や整体などあらゆるものを試したと言います。

朝、健康のためと思い、散歩をしながらラジオを聴いていたら、腰痛らしき話なので・・「だまされたと思って来てみました。ガっはッは!」豪快に笑いました。

私はレントゲン写真を撮った後、だまされたと思ってこの治療法をトライしてみるように勧めました。

左右も前後も多少のゆがみ。しかし画像になにか変な違和感を憶えたのです。

なにか・・なにか変だなぁ・・・

彼「先生、だまされたと思って週一回で三カ月きてみなさいですか??自分でゴムバンド運動してみろですか?暇とお金も割とあるからやってみますよ!!」ガッハッハ!

それから二カ月の立たないうちに、来院した彼は私の部屋に入るなり、脇の机にガバッと伏せ、「先生、悪いねぇ、ごめんなさい」と謝ってきたのです。

「どうしたんですか」私はなにが起こったのかと聞いてみました。

「症状が・・・もう・・何も何も・・無いんだよ!!」

近くにいた看護婦さんもその光景の勢いに、笑いを堪えていました。

聞けば、言わなかった場所にも。例えば肩の痛みやわき腹などにも違和感を覚えていたらしいのですが、それらが総てなくなったので喜んでいるようでした。

確認の為、レントゲン写真を撮り、初診時の画像と比較した時!!

神が舞い降りたような衝撃。一言で言うと・・変じゃない!!のです。

その感覚の原因は・・・左右の骨の幅がほとんど同じ幅!対称的なのです!

初診時なにか変だなぁと感じたものは、左右の骨の幅が大きく違っていたのだ。計測すると右の骨と左の骨の幅の差は23㎜もの違い。とても大きな差でした。

あと一つ残っていた鑑別点はこれだ!前後の「ねじれ」だったのです!!

それから来院する初診の患者さんの計測鑑別法に前後のねじれが加わり、「ゆがんで・ねじれて・かたむいて!」が判断の基準となり、腰痛対処法のひとつとして、確立に成功したのです。

30年以上前に、あらゆる神に祈ったこと。

「いたみが取れたらその原因を必ず調べます。だから助けて!」

その約束は・・自分なりに成就したのです。

その後に来る患者さんに、この健康法・治療方法を信じて下さいと言うような、言葉は必要なくなりました。

激痛を訴えて来る患者さんに、だまされたと思って良いから、三か月間、ゴムバンド運動と週一回の受療を試してくださいと言えるようになったのです。

その効果は十分満足に足るものです。

驚くべき、ねじれの症状・・・

その後、日本テレビ系列、午後の有名な情報番組から、出演依頼が来ました。

この放送を見て来院した患者さんから、ゴムバンドによる、ねじれの補正効果を端的に理解できる機会となりました。

「不定愁訴の解消法」というテーマだとおもいます。

歯科医師でありながら、顎のバランスのみならず、土台のバランスにも言及し、指圧師としても、不定愁訴の解消に尽力しているとの建前だそうです。

放映後、受付から、岡山に住む52歳の女性から電話が入りましたとの事。

聞けば2年の間、口を開けようとすると、強い左顎の痛みを感じて困っているようです。岡山の医学部・歯学部・歯医者さんに診てもらったが、埒があかない。その上、治療にかかった費用の総額は250万円を超えたと言います。

痛みの出ている、左顎は充分かつ詳細に調べつくしたが答えが出ない。

難治性顎関節症という事らしいのです。

診てもらいたいとのことなので、一度、来てみてはどうかと言いました。

品の良い洋服で、中肉中背で若々しい顔つき。一応顎のレントゲン写真を撮ったが、特別な異常は見当たりません。

そこで、私が思う、人体に例えると家の土台の部分。骨盤のレントゲン写真を撮ってみました。

画像では、左右のゆがみ、上下のかたむきには、さほど異常が見られず、むしろ骨盤年齢的な数値は値が良くて、見た目の若々しさとリンクしている感じでした。

だが・・左右の腸骨部の幅は、左の方が右よりも9㎜ほど広い。

つまり左にねじれていると思われました。

私はゴムバンドを取り出し、ねじれた左側の骨を前に引き、対称的にするよう、ゴムバンドの弾力を使い、強く締めました。

そして関節の動きをうながすように、御婦人の腰を持ち、ゆっくりと回転した後、歩くように促したのです。

5メートルくらいを2往復。怪訝そうな顔つきで戻った婦人は、椅子に座るなり、こう言ったのです。

「先生は魔法を使うのですか?神さまなんですか・・痛みが無いんです!!」

何十人かの患者さんに同じことを言われた経験があるが、いつも困ってしまいます。

少し離れて見ていた御主人が改めて、名刺を差し出し、挨拶頂いたので、ご自宅に帰られたら、時間のある時に、奥様の左の腰とお尻を横向きに寝かせ、押すように教えました。

後日、ご主人から電話が来て、言われた通りにしていたら、痛みが出ないようだが、また上京した方が良いかと聞かれ、もうその必要はないと伝えました。

ゴムバンド健康法と歯科医療の重要な関連性

ねじれは身体の、右半身・左半身、それぞれ片側性の症状にリンクしていると思っています。

右側の頭痛・首コリ・顎の痛み・右肩だけの肩こり、背中や足腰の片側の症状。

歯科医師的に考えると、片寄ったむし歯や、片方だけ進行が進んだ歯槽膿漏などとともに歯を抜いた本数の違いが顕著だと思われます。
噛み込んだ時の高さの違いを口腔内だけで考察すると壁にぶち当たってしまうはずです。
磨き残しの歯垢・プラークの量の左右差にも表れる可能性があります。

かつて医科歯科大の恩師の教授に聞かれたことがあります。
教授「腰痛は噛み合わせで治せるの?」
私「ごく偶に治る時もあります。但し可能性は低いと思います」

その教授のとある思い出から
近年東京女子医大の名誉教授となられた恩師から突然の電話がありました。
娘婿さんが急性の腰痛で北里大学医学部の附属病院に救急車で搬送されたらしいのです。
教授「山田君、腰痛をやってるよね?大丈夫?」
私「・・大丈夫だと思います」
月曜日の朝に発症し検査を重ねたが原因がわからず、投薬と安静。金曜日のお昼頃に教授からの電話。
次の土曜日の朝一番、タクシーで来た慶応大出身のラガーメン。
座ることが出来ずに、私の激痛と類似していました。
聞けば在京キーテレビ局のディレクターとの事。
会社を休めないとの訴えです。
私は画像から休まなくて良い。但し常にうろうろ歩くか、椅子に座らないで会議をこなす事を伝え、週一回の受療で最大3か月と言いました。 
著効でした。ひと月もすると来院の必要が無いように思われました。

顎関節症状などに対して

昔、医科歯科大の時に、顎関節の症状に対する名医と称されるI教授と言う先生がおられました。

その先生の治療法は、上下の犬歯にプラスチックを盛って、その部分しか噛み合わないという方法だったらしいのですが、見た事が無いので、噂でしかありません。

その論理は、噛み込みが過剰のはずだから、犬歯だけを当てて、負担を少なくすると言う話でした。

ですから患者さんは、一週間程度、流動食にしていたと聞きました。

名医なのですから、その効果は良いのだろうと思います。

ネットの情報では、顎関節痛の患者さんは200万人と言う記述があります。

腰痛と同じように、原因不明の難治性顎関節痛の人々もいらっしゃるようです。

歯科医師でテニス教え子の浜松開業の先生がセミナーついでに、治療に寄った時の事です。

岡山の難治性顎関節症の話を伝えると、実は・・・と話してくれました。

若い女性の患者さんを治療していると、顎が開きづらく、痛そうな顔をするので、自分が巻いていたゴムバンドを巻かせると、痛みが消えてしまい、そのままバンドを持って行ってしまったので、上京ついでにゴムバンドを買っていきますとの事でした。

またつい最近、治療をしていた患者さんが腰を辛そうにしているので、自分が巻いているバンドを使わせたら・・返ってこないと言います。

患者さんのちょっとした症状に対応するのも、健康を守る歯科医師の役目のひとつであろうと考えます。

視覚的に見える身体のねじれと骨盤骨格のねじれはリンクしていると確信を持っています。

ただし年々、老化やねじれは進んでいきますから、短期的に推測と症状が変化をしていく事はご理解ください。

このねじれの発見が、長年あきらめかけていた原因究明の旅にピリオドを打つことになりました。

そして人体における真理に辿り着いたのかもしれないと感じています。

「信・通・真」

かならず論理があるはずだと信じて、真理に辿り着けたのだと思います。

万能健康法なのか?非適応例について

ただしゆがみ補正は万能の方法では、ありません。

補正できない症例もありました。4万人近い患者さんの中の4例ですから、一万人にひとりくらいの割合ではないかなと思います。

以前は骨盤のレントゲン写真はゆがみ補正の考えに、必須条件かと思っていましたが、その気持ちは変わりました。推測した骨盤画像と実際に撮影したレントゲン写真を比較しても大きく食い違う事が少ないと感じるようになったからです。しかし、治療やゴムバンド運動をしても効果あるいは変化しない時には、お医者さまで骨盤部の仙腸関節の可動性を確認した方が良いとおもいます。

骨盤の仙腸関節部の癒着があるからです。

めったに遭遇しませんが、3つの癒着症例理由とおぼしきものを書きます。

癒着症例1 老化

90歳直前のお婆さん。歩き方がとぼとぼで、レントゲン写真の画像には、右側の仙腸関節に丸い白い骨のようなものが見えます。

人間全員が老化を受け入れて、寝たきり状態になった時に起こる変化と考えています。

医師・歯科医師はそれぞれ在学中に解剖実習があります。医学部では数人に一体、歯科大学では数十人に一体と言う違いはあります。

二年生の時に経験するのですが、強烈な臭いに閉口して、不真面目な解剖実習でした。

骨盤を調べる時に、改めて日本歯科大学の解剖学教室にお邪魔して、実物の骨盤部の骨を見せてくれるよう頼みました。教授が持ってきてくれたのは、3つの骨盤でした。ひとつ極端に小さいのは、子供の骨盤。

それは腸骨と仙骨が針金で結ばれ、離れないようにしてありました。

残りふたつは、針金はなく、大きい骨ですからおそらく大人のものでしょう。

仙腸関節の部分は、がっちりと石灰化し、癒着していました。

その仙腸関節には、粘土を丸めて、ぎゅっと押し付けたような状態が何層にも重なり、その可動性はありえません。

これが長い間、仙腸関節には可動性は無い!という論理の根拠と思われます。

この老化による癒着は全人類に必ず起こります。ただしかなり高齢者と言う事と、寝たきりの老人に多く見られ、治療希望で医療機関まで、歩ける人は除外しても大丈夫だと考えています。

癒着症例2 病気

東京大学医学部 付属大学病院、整形外科の先生の紹介状を持った患者さんが来院しました。その書類の現病歴に「くる病」とかいてあり、主に左側の仙腸関節に動きそうな関節がありません。

右側の関節も不鮮明でした。

この治療・ゴムバンド健康法の対象ではないと思い、返信書きましたが、返答はありませんでした。

この病的な癒着には、三人目の協力内科医師の先生に、急性の感染症の可能性は無いのかと質問され、その答えは、お医者さまがゴムバンド健康法に興味を持って頂く時代を待つしかないのかと思っています。

癒着症例3 過度な負担

ご近所の72歳のお婆ちゃんが来院しました。

婆「昨日の近所の会合でここに来れば、なんでも治る!」と聞いたそうです。

なんとも嬉しい。

しかしレントゲン写真を見てビックリ。

左側の仙腸関節が白く石灰化像。癒着です。

私が何をやっていたのかを聞くと、片足立ちで活字を組む、活版印刷を27年以上やっていたと言います。

この時、20数年前、最初の開院の時に来た、三重県鈴鹿市の35歳、男性を思い出しました。

その男性は私の経験とほとんど同じ。左足の激痛と灼熱痛。早朝ラジオを聞いたとの事。

兄が撮ったレントゲン写真で癒着間違いなし。その男性は18才で地元、ホンダの車工場入社後、17年間、左足でタイヤを、ひねりこむ作業をし続けていたと言いました。

この男性が骨格補正不可能の第一号患者でした。

このお婆ちゃんも同じ写り方。その事を伝えると「せっかく来たんだから、なんとかならない?」と詰め寄られました。

苦肉の策でいいました。

「お婆ちゃん、左足のしびれは骨が神経に触っているからかもしれない。ちょっと試してみましょう」とゴムバンドを左から右に強く巻くと、「あら、しびれが消えたよ!・・・来た甲斐があったよ」

でも、癒着があるため、補正しきる自信は無い事。バンドをきつく一日中、巻き続ける事は無理だと説明すると、「良いよ!お出かけする時だけ使う」言って喜んで帰っていきました。

もうひとつ、ゴムバンド運動法の適応外のひとがいます。
手術などによりチタンなどの金属類を体幹の骨格や関節に入れている人です。
推測ではありますが、この運動法は体内の異物を排除しようとする働きが活性するように思えます。

海老名総合病院時代、50代の女性が歯科診療室を訪れ、不調を訴えました。
人助けのつもりで一度手技療法を行い、ゴムバンド運動法を教えました。
次の日に、とても快調だと言い、手技をねだりました。

自分の自己運動法で良いはずだからと励まして帰ってもらいました。歯科を手伝ってくれていた古株の看護婦さんが、言いました。
あの患者さん、股関節を人工骨頭に置換手術したはずだけどと!!

えぇ~~でも、後の祭りでした。
数か月後に再オペとなりました。が、先生は恨んではいない、感謝している!楽だったから・・
そう患者さんから聞いたと衛生士さんに聞きましたが・・・忸怩たるものがありました。

すべてを解消させる万能健康法であるとは言い切れませんが、秀逸なものであると言えます。

併用する骨盤補正法の手技療法は・・

指圧・マッサージなどで委縮している筋肉を緩め、関節の可動性をつける。

そして、若い時の本来の解剖学的骨格位置に少しでも近づけるという意味において重要です。

私は生還するために、毎日手技療法に通った経験者として思いました。

治療直後、すこしの変化があるときもありましたが、多くはあまり効果をかんじられませんでした。つまり手技療法だけで必ず素早く骨格補正を行えると言う訳ではありません。

ではなぜ通ったのか。

あの痛みは、絶対に戻りたくないという恐怖心からであり、気持ちが先生を頼ったのです。

近年、東京のクリニックに通う患者さんたちに、顔を見るだけで安心するとか、先生のお腹に触るとご利益がありそうとか、果ては話すとエネルギーをもらえるとか・・・人知を超えたものもあるのかとも思います。

いずれにしても、医療行為に関わる人間は、患者さんから見て、信用できるかどうかと言う事が、かなり大事な要素になりえると思っています。

ここで手技療法の類に関して最近の事象に一言、言わせて頂きます。

とても気になっている事があるからです。

前橋の幹線道路沿いの看板にリラクゼーションやらほぐしやらの文字。それに時間と料金を書いたものをよく目にします。

日本は資格社会ですから、医師は医師免許、歯科医師は歯科医師免許所持者がエビデンス(論拠・証拠)に基づいた医療行為をしています。

医療類似行為である、あんまマッサージ指圧師、柔道整復師、鍼灸師などは国家資格をお持ちだと思います。

このすべての資格保持者の医院や治療院は病名・料金を書き込む事は違法なのです。

もし無資格で治療めいた事をしていて、事故や重大な過失などが起きたら、資格を持っている先生方には、業務上過失と言う枕詞がつきますが、彼らにはつきません。

快感や快楽を求めるのであれば、ご自由に行くのは構いません。

ただし症状の改善を求めに行くのなら、冷静に考えてから行動する方が良いと思います。

G先生が創始者である骨盤調整という手技療法は、関節部位を手や足などで押したり、捻じったりしますが、その加圧方向は解剖学的に合致している事が多く、勉強熱心な先生だったと推測しています。関節を動き易くして、症状の出る前の状態に戻せた時には、その施術者はゴッドハンドと呼ばれることもあるかも知れません。

ともあれ症状改善のはじめの一歩になり得るのです。

ゴムバンド運動法は、家でいう土台の部分の骨盤骨格にゴムバンドなどの強い力で強制力を持ちながら、自己運動を行う方法です。

その目的は、骨格をあるべき場所に戻すという事がメインです。

お腹ではなくお尻の周りにしっかりとゴムバンドを巻いて、一日最高300回くらいを限度に大きく回す。

この運動法は、素晴らしい論理に基づいた健康法だったのです。治療法とあえて言いません。

痛みのある腰痛はまず整形外科の先生にご相談ください。

そこで年のせいだとか、原因がよく解らないと言われたら、内科の併用も良いかもしれません。

今日、腰痛は二つに分類されています。

特異的腰痛と非特異的腰痛です。

特異的腰痛はお医者さまにお任せするのがベストの選択です。

お医者さまでよくわからないと言われる非特異的腰痛は全国で2770万人~4000万人と言われて85%を占めています。

お医者さまで理由が解らないとなれば、医療類似行為に頼らざるを得なくなります。

まずは充分、噂や情報を活用して、脱出法を選んで頂きたいと思います。

この健康法の旗振り役の提案

この簡便なゴムバンド健康法の実践者は誰?

ひとつの意見と捉えて下さい。

お医者さまは、重症な感染症や事故対応などで忙しく、あまり腰痛などの不定愁訴に対して積極的な医療行為がないかも知れません。確かに世界中の医学雑誌や科学ジャーナル誌を賑わすような可能性は少ないと思われます。

命を守るのがお医者さまの仕事なのです!

最近のテレビ健康番組で仙腸関節性腰痛などを語って頂ける先生方もいらっしゃるように見受けられます。しかし整形外科の先生方がエビデンスを掲げて行うのは・・だいぶ将来の事だと思っています。

では、お近くの歯医者さんはどうでしょうか。

日々お口の中の症状の改善をするために精を出して働いています。

歯並びや顎のバランスを考えて医療を行っていると思います。

ここの歯科クリニックで、腰痛の治療をしていますと宣伝する事は認められませんが、噂がうわさを呼ぶかもしれません。

あくまでも噛み合わせを再構築する前段階として、骨盤や下半身の強化を目指した「健康法」なのです。患者さんの健康を守るのが歯医者さんのお仕事だと考えます。

いつもむし歯の治療やお口の掃除をお願いする歯医者さんがゴムバンドを使った自己運動法を指導して、改善すればかなり多くの腰痛患者さんや顎関節症の患者さんたちに朗報となると思います。

海老名総合病院時代の話です。

昔からお医者さまという言葉は聞くけれど、歯医者さまという言葉の響きは聞いたことがありませんでした。

病院の歯科ですので、顎の痛みだと歯科に回ってくるケースもありました。

当時はG先生の講習会を数回聞かせて戴いた頃でした。

見よう見まねで、顎の痛みを訴える患者さんに対して、座らせた歯科ユニットを平らにして、顔にタオルをかけて両方の顎をゆっくりと締め付けたことがありました。

今で言えば、小顔にする方法とでも言えるかもしれません。

十秒間くらい押して二回繰り返すだけです。

それだけで症状が無くなってしまったのです。

無論この方法は絶対的な治療法ではありません。たまたまかも知れません。

しかし、何かの方法で楽になれば、患者さんの対応も変わる経験でした。

その患者さんに歯医者さまと呼ばれるようになり、驚きましたが、海老名時代にもう一人同じ経験をしたので、日本中の歯医者さんが歯医者さまと呼ばれる時代が来ることを願っています。

顎の症状だけではありませんが 常に痛みの早期対処法は、痛くなる前・痺れる前・歩けなくなる前。

あるいはふとる前・老化する前など、例を挙げればきりがありませんが、そのまま骨格のズレを受け入れ改善を待つか、その前の骨格の状態に戻すか!

二つに一つの選択なのかも知れないのです。

知っていれば、その選択も出来るかもしれませんが、知らなければその選択は出来ません。

ゴムバンド健康法の普及は、歯科医師の先生や歯科医療関係者がその力を発揮するべき分野だと思えるのです。

ゴムバンド運動法の実際

板状のゴムバンドの2メートルのもので、お腹ではなく、お尻に巻くのです。そして体をゆすったり、横ゆすりしたり・・・そして極めつけは・・・フラフープ運動の要領で大きくゆっくりと回す。

それだけが根本の健康法です。

三方向への効果的運動(左右・上下・前後)

左右のゆがみはバンドを巻いて左右に動かす事が有効です。腰の痛みに有効です。

このゆがみは骨格が左右にズレたサインと思われますので、きつく巻けば、本当に著効なのです。

上下のかたむきは巻いて、お尻を前後に動かす事。出来るだけ、前に突き出す事が有効です。若さ保持、姿勢維持に有効です。

ただし、人それぞれ、取り巻く生活環境は千差万別です。早めに老化を受け入れる生活を続けていて、何か変だなくらいのモチベーションで、ゴムバンド運動に頼るのはお気をつけ下さい。

つまり効果の現れ方が遅く、あきらめてしまう傾向もあります。

前後のねじれは巻いてお尻を回転する事が重要です。

特に回転する角度でなにか違和感や症状が出る角度を狙って回転する事が、すべての三次元的補正に繋がるから、スムーズに回転する事ができれば、この運動法の真骨頂。

また口腔内の歯の喪失、虫歯、歯周症も関連していると歯科医師である私は確信しています。

つまり極論をいえば、左右上下前後すべてに有効な大きくゆっくりとお尻を回す、運動が症状回復、老化防止、若さ回復の切り札の運動法と思います。

この運動法に副作用的弱点はあるか?

父は医師でありながら、「薬は毒!」と常々私にいいました。

ですから、長い期間の投薬より、注射を選ぶことが多かったのかなと思っています。

このゴムバンド運動法には、副作用やマイナス面が無いとは言い切れません。

治療開始28年、4万人近い、患者さんの中で、二人、心配した事がありました。

これは、動き易くした骨盤の仙腸関節の可動性がつきすぎて、不安定になるという経験です。

ひとりは50代後半の女性、もうひとりは60代後半の男性です。

このふたりの共通点は、一日の腰回し運動を1000回以上やるという、まじめすぎる事でした。

女性は元々、女性ホルモンの働きで、骨盤の関節が柔らかく、動きやすいので、回し過ぎは注意が必要です。特に妊娠をしているときには、運動自体は、元気な赤ちゃんを産むためや産前・産後には千回以上の運動はやめるべきです。

妊娠初期の三ヶ月くらいは巻いているだけにして、安定期に入ったら朝晩30回くらいの運動をお勧めします。

まじめな事は大事ですが、何事も過ぎたるは・・・

男性は?と感じる方もいらっしゃると思いますが・・・人類の決まり事で高齢になると性ホルモンの分泌が減少していきます。男性の女性化、女性の男性化。

お婆ちゃんにヒゲが生えたり、男性のヒゲが細く、髪の毛も柔らかくなったりしていきます。骨盤の仙腸関節も柔らかくなる可能性が考えられます。

一日に300回ぐらいを限度にすれば、不安定になる事はないと思います。

しかし一時的に不安定になり、症状がきつくなったとしても心配はいらないのです。

人の骨格関節は動かさなければ硬くなる一方ですから、3か月くらい運動をしなければ良いはずなのです。

このふたりも改善し通常生活にもどりました。

この運動法は民族や人種には関係せず、全人類に共通の健康法になり得ますが、お尻まわりの筋肉の強い人種にとっては、まだまだ先の未来に必要になる方法だろうと思っています。

ただし日本は文明の進んだ先進国として、生活が“楽”になり過ぎたせいか解りませんが。お尻の筋肉が弱いと考えています。

日本人には、病気とは言えない、老化や不定愁訴に対して、筋肉強化を伴う骨格のゆがみ補正の効果は絶大であると確信しています。

スポーツに適応できるか?

皆さんは、何年か前に行われたオリンピックの水泳2百メートルで金メダルを見事獲得した選手を憶えていると思います。

その選手が2大会連続の金メダルを期待され、着用する水泳パンツが話題になりました。

日本製の水の抵抗を極力少なくした水着と海外製の魔法の水着と言われたものの二者択一だったと思います。

彼がえらんだのは、外国製の水着。

競技前にそのパンツを穿くときに30分ほどかかると言う、きつ~~い水着だそうです。

冷静に考えれば、骨盤骨格を17~18歳時の一番バランスが良く、運動に適している時の骨格に戻す事を選んだと推測できます。

彼はそのスピード水着を使用し、見事金メダル2連覇を果たしました。

ただし、その後、世界水泳連盟はその水着を使用禁止にしたと聞きました。

色々なスポーツの勝利の瞬間映像にズボンからはみ出したゴムバンドを目にしたことがあります。陸上・短距離百メートルのゴールの瞬間。

あるいは、プロゴルフの優勝パットを決めた瞬間。などです。

身体の中心・要を最大にバランスの良い骨格に誘導するのには、骨格を締め付ける殿筋を中心とした筋肉の強さが不可欠でしょう。

少しでも良い状態で競技に臨みたいのであれば、禁止されていない場合に限り、骨盤骨格と顎関節骨格を正確な場所において、スポーツを行うべきと考えます。

私の大好きなテニスにおいて近年、錦織選手が世界ランキングの上位に入り、素晴らしい試合で楽しませてくれています。

以前の彼と最近の彼では、お尻の筋肉の違いが如実です。

厳しいトレーニングの成果だと絶賛したいと思います。歯科的に言えば、上顎の第二大臼歯の後方偏移を修正する余地があると私個人は考えていますが、いかがでしょか?

世界で活躍しうる日本人スポーツ選手を見ると、体格の差が勝敗に大きく関与するものは、厳しいのかなぁとも思いますが、ゴルフのM山くんや野球の0谷くんは、その体格ですら世界基準と思えるので、持って生まれた資質もスポーツには大事かも知れません。

無論、体操や卓球・サッカーのような俊敏性を競うものは、世界に伍して戦えるでしょう。

もう一つは格闘競技についてです。
クリニックには相撲取りの選手やプロレスの選手たちが噂を聞いて来院してくれました。
私はあまり好みませんが従業員たちはファンが多く感激していました。
彼らは巨大なお尻をしていて、筋肉の量も半端ではありません。
しかし・・・画像は・・・少年!青年!縦長の細い骨盤画像です。
300キロを超える体重の奇人変人でも、骨盤は普通の人間と変わらず、半切というサイズに入るのです。
 
その中で忘れられないのは、ハッスル運動と言うものかわかりませんが、腰を前後に突き出す動きする元柔道王の選手。
見た事もないような理想形の綺麗な画像です。膝の突発性の痛みとの事でしたが、治療した次の日に症状の消失と言う事を、初代タイガーマスクから電話が来て、その事について新聞取材を受けて良いかと聞かれ、喜んで承諾すると、次の日のスポーツ紙5紙に記事となったことにビックリしました。 

彼に関しては・・誠に失礼な事と思いますが、毎年の賀状によると、お子さんも多く、夜のリング行動もハッスルなのかもしれないなどと思ってしまいます。
私もセックス行為も人体には、重要な健康運動で、「セックス健康法」という書籍でも書こうかと思いますが、専門家ではないので遠慮いたします。

ゴムバンド運動に戻ると・・
海外サッカーの映像にメンバーチェンジで試合に入る選手が、大きく腰を回転している事があります。おそらく良いパフォーマンスを見せるでしょう。
あの簡単な準備運動が理にかなったバランス補正法なのです。

日本人が世界に伍してスポーツをするのであれば、顎にマウスピースのようなバランス均衡装置。骨盤にゴムバンド強制力。
このふたつの土台と屋根があれば、様々なスポーツ競技において勝利を目指す大きな要素になると考えています。
子供の歯の矯正前の前準備には、土台のバランスを取るゴムバンドは欠かせないものとなりますが、日本人全体が民族体格の特性を理解する事も大事だと考えます。
「食う・寝る・遊ぶ」の幼年期の運動環境・成長発育にまでバランスを考えねばならないのかもしれません。

ガニ股が強くなったスポーツ選手は、かつてとても強い戦績であっても、引退の時期が近いと感じる私は浮世離れした予測をしてしまいます。

心の中の恩師・G師匠の思い出

ゴムバンドを発明したとされるG先生の近くにいた時、色々な名言を聞くことができました。

G氏「ゆがみの原因すべて右にある!」

利き手、効き足、内臓の重さの左右差を勘案すると真実のように思えます。

G氏「腰痛、我慢すれば悪くなる」

あの当時、整形外科の先生はほぼ全員、安静の指示をするのが、一般的でした。

近年、マスコミに流れる整形外科の先生のコメントは少しでも動いた方が良い!!!隔世の感がありますし、嬉しく思います。

G氏「当たりがあってハズレが無い」

この言葉は先生の著書にも書き込まれているし、良く耳にしました。

G氏は昔、テキ屋さんだったときいています。

縁日などで物売りをしていて、あのような口調になったようです。なるほどと納得しました。

そして極め付け!

全国のお弟子さん達を集めた月に一回の講習会での発言です。

究極の一言

G氏「ゴムバンドを使わせるな!治っちゃうから!」

これは当時、全国のお弟子さん達を集めた講習会での発言です。

これには耳を疑いました。当時、原因究明と論理の構築を目指していた我々には理解ができませんでした。

この発言で意を決した私は兄と共に、G氏と面会しました。

私「治った理由を研究したいのですが・・」

G氏「それは私がやる!」

激怒した先生は言いました。やりとりが色々とあった上で・・

最後に私はもう一度尋ねました。

研究してはいけないのかと!「だめだ!」

決して許しは出ませんでした。

これが私らとG先生との決定的な亀裂となり、お互いの道を行く事になったのです。

でも私はG氏が逝去した時、告別式に出席させていただきました。確執があっても報恩の気持ちの方が強かったからです。

多くのお弟子さんたちは私を見て、いぶかしげな表情でしたが、ただひとり微笑んでくれたのは、G氏の奥さまでした。

G氏が考案、発展された骨盤調整法、ゴムバンド。その効果と原理追究は、私が完遂することが出来ましたといずれ、墓参させて戴きたいと願っています。

ゴムバンド健康法についてもうひとつ確認しておきたい事があります。

骨盤調整法を行う自然良能会と言う会の事を、著書を通じて知ったのは、30年前です。その創始者はG政吉先生です。

G先生の名誉のためにも明言しておきます。

その当時、手技療法がメインでゴムバンドは補助健康器具のような扱いでした。

その後、私ら兄弟がG先生と袂を分かってから、ゴムバンド健康法を1986年に出版しました。

G先生の神通力が衰えたのかどうか解りませんがその後、私が発明・開発したゴムバンドと称して、マスコミなどに登場している方々。理由はわかりませんが、構図としては、えせ発明者であり、偽物。真似をしているとしか思えません。

極めつけは私の著書「お尻でやせるゴムバンド健康法」と同じ内容で出版してしまいましたと謝りに来た「○くだけダイエット」の出版編集者の女性二人。

その当時も今も、文句をつける気持ちはありませんが、いずれ真実が明らかになるでしょう。

骨盤とゴムバンドを考え、普及させたのはG先生であり、私はその論理の解析をしただけなのです。

ゴムバンド健康法をまとめてみます。

生きて行く上で知っておいた方が良い「絶対」がふたつあるように思います。

1.生まれたものは死を迎える事。

もうひとつ、私が感じ、行きついた「絶対」は次の事です。

2.人の立体骨格は17歳~18歳頃に、ほぼ理想的で解剖学的にバランスの取れた綺麗な形に出来上がります。

それが年齢を重ねると、形を変えていく!!という絶対です。

つまり、青年の時のままの骨格ではいられないという事です。

これは地球上、すべての人類に当てはまることです。

ゴムバンド健康法実践は誰が行うのが良いのか

重複して申し訳ないです。

歯医者さんがたちが適任です!痛みを改善したり治療するべき歯に対処した後、補綴物(入れ歯や被せもの)を装着する時に、顎のバランスに留意して行うのは重要なことです。

顎のバランスは人体における屋根のバランスです。インプラントの前準備としてもとても重要です。

例えが不謹慎と言われるかも知れませんが、あえて言うと・・・・

自然災害などで、壊れてしまった家屋を修復する時に、屋根だけ治す事はあり得ないと思います。

土台となる地面のバランスを考慮して、再構築するでしょう。

歯科の矯正治療においては歯科医師として、必須の考えだと力説させて頂きます。最近のネットの書き込みに、こんな記事を発見したからです。

“こどもに歯科矯正治療をさせたら身体がゆがんだ!”

こんな記事でした。私に言わせれば充分あり得る事です。

今の若年者たち、姿勢が悪すぎます!土台を考えるべきです。

ゴムバンド運動をさせれば、起こらなかったと思います。

しかし実はもっと適任者がいるかもしれないのです。

それは・・歯科衛生士さんや歯科助手さんたちです。歯医者さんの数より数倍多い人数の医療従事者です。

歯医者の先生方は、口の中を丹念かつ慎重に診察しなければなりません。

しかし彼女たちは来院して受付をして待合室で過ごす仕草を観察する事が出来ます。

体重をどちらに掛けているか、どちらの足を組んでいるか、ガ二股の開きはどちらの角度が大きいかなど態度や姿勢で類推する事が出来ます。

この観察を踏まえて歯科医師と口腔内の治療方針や口腔清掃指導の仕方を共に考えるのも良い事だと考えます。

歯科衛生士や助手さんは、歯型を採った後の石膏注入や口腔内のバキューム(余分な水を吸い取る作業)だけではないと言う事です。

患者さんの不定愁訴や悩みを聞き出して、歯医者さんの治療について話し合う事も増えるはずです。

歯科業界には歯科技工士さんと言う方たちもいます。
歯科医院において、患者さんの前面に出る事は稀ですが、歯科の歯型・模型から、顎口腔のバランスを推測し、人体の屋根・顔面のバランスを考えているはずです。
歯科医療業界で華々しい活躍は聞きませんが、屋根のバランス構築のために、ゴムバンド運動を推奨する事はできるでしょう。

齲蝕歯や歯槽膿漏の進行なども、身体のゆがみから推し量れるかもしれないし、疫学的検証例が増えれば、彼女たちのステータスも上がり、歯科医療においてなくてはならない存在だと思います。

ゴムバンド健康法には最適なのかも知れません。

歯科医療の将来に思う事

歯や顎、口腔内の痛みなどの諸症状を引き起こすものは「悪」だとしましょう。

「悪」は、殲滅の為に戦かわざるを得ません。だから歯医者さんは戦います。

私が所属していた四谷牛込会の歯科医師で若いですが、凄い能力を持っている先生が私に言った事があります。

「私が歯科医師になって本当に良かったと感じる時は、患者さんの痛みが取れた時です」

長崎大学時代の出会いと別れ

長崎大学 歯学部に赴任していた時の事です。

私が担当していたのは、六年生の臨床実習と五年生の実技、それとテスト監督などでした。

研究のお手伝いも頼まれましたが、医局では多少不真面目で、テニス部の指導の方に精を出していた記憶があります。

それともうひとつ。落ちこぼれに手を貸すと言う自己満足行為?

当時の五年生の中に学業が心配と思える学生がふたりいました。H君とI君。

ふたりとも歯周病の実習において、口腔内への装着器具がうまく制作できません。

I君は解らないところがあると積極的に質問をしてきます。アグレッシブ。

H君は黙って、黙々と作業をしているが、制作物が出来上がりません。

ふたりとも、手先の器用さに欠けるという事でしょう。

しかし、人生は慣れの積み重ねと考えます。

ですから手助けしながらの実習でした。

二人とも国立の歯学部入学したのですから、優秀であることは間違いありません。ただし・・・不器用!

長崎にだいぶ慣れて、 土日になると、医局の友人N先生と一緒に、彼ら二人を連れて、飯を食べに行ったり、野母崎という綺麗な海を見に行ったり、長崎を楽しみながら、自分たちなりに学生を指導していました。

笑顔を少しでも多くしてやれば、前に進めるように感じていました。

その一年後

翌年、医科歯科大に戻り、5月の大激痛。寝たきり。ゴムバンドとの出会い。

前橋の自宅での闘病。その頃です。

7月か8月か記憶にありませんが、横になっている私の枕もとの電話が、突然鳴りました。

前年、担当していた長崎大歯学部の六年生。五年当時の教え子で生徒会長だったと思います。

挨拶もほどほどに!

彼「先生はHを憶えていますか?・・かわいがっていましたよね」 「あぁ」

「あのH、自殺したんです!!」「えぇ~~~!」その瞬間鳥肌が立ち、痛みを忘れた気がしました。

「なんで?Hが・・・」

生徒会長はやや興奮気味にその状況を話しました。

二日、無断欠席だったので、同級生数人で、Hのアパートに行ったら、鍵が掛かっている。

ドアを叩いても返事がないので不審に思い、窓から覗いたら、座卓に倒れていたHを発見したと言います。

歯学部大学病院の診療室から麻酔薬と注射筒を持ち出し、手首に打ってから、動脈をカットしたようだと言います。

私「遺書はあったの?」と聞くと無かったと言いました。

彼は、噂ではあるけれど、と前置きをした上で、小児歯科の担当先生から、きつく怒られているのを多くの学生が目撃していて、まるでいじめられているようだと言いました。

だから同級生で集まって、学校側に原因究明の抗議集会を計画しているとの事で、ただでは済まない雰囲気が感じられます。

私「誰かHの相談に乗ってやった人はいるの?」と聞きました。

生徒会長「それが・・誰もしらなかったので・・いないようです」

私は今、前橋の実家で、激痛と戦っている最中である事。自殺さえ考えたが、運よく改善法が見つかって、努力している事。あきらめなかった事などを簡単に話した後、自分の考えを彼に伝えました。

私「遺書も無く、相談も無かった。そんな噂があったのなら、お前も含めて同級生にも、してやれる事があったのではないか!抗議集会などなんの意味もない!」

しばらくして抗議集会は中止になったと聞きました。

このH君においては、私も後悔している事があるのです。

正確な記憶ではありませんが、彼は山口県出身で両親は学校の先生をしていたようです。

成績も優秀だったので、医学部を目指したのですが、合格できず、仕方なしに長崎大の歯学部に入学したと言っていました。

場所は忘れましたが、二人だけの時にHに質問されたのです。

H「先生は歯科医師になって良かったですか?」

唐突ですが、根本を突く直球の問いかけ。

私「あぁ、そう思っているよ」この時の私は・・・嘘つきでした!!

当時、テニスに夢中な私は、午後の硬式テニス部との練習が、一番の重要事項。それ以外の事は、時間の流れに任せて、やらなければならない事をこなしているだけでした。

兄が浪人を続けた末に、医学部入学を果たしたことをうらやましく思っていましたから、自分の職業に自負心を持つことが出来ずにいたのです。

今ならば、自信を持って、こう答えたでしょう。

「バ~~~カ!・・歯医者てぇのはなぁ、口の中だけじゃねぇ!患者の健康を守れるはずの大事な職業!!!だから・・・胸を張って生きろ!!」と。

もし、お医者さまが積極的に骨格のゆがみを語らないのであれば、医療類似行為の先生や整体さんではなく、歯医者さんや歯科衛生士さんが、簡便な方法で痛みに対処したらどうでしょう。

うまくゆがみの修正が出来た時には、神さまのように、思われる可能性もあり、バランスを診る上で最適と思えるのです。

この考えを、一般の方、歯医者さん、歯科衛生士さん達に伝える事が、「ゴムバンド健康法」の論理追及とデータ蓄積を完了した者の使命だと思っています。

あとがき

二つの使命と書き出しましたが、巻頭で述べたように、二つ目の使命は発言や行動にバイアスがかかり、色眼鏡で見られる可能性があります。

どちらの使命も私しか語れないであろうと思いますが、まずは多くの人々が気づかなかった「ゆがんでねじれてかたむいて」の旗のもとにゴムバンド健康法を日本中をまわって伝えていきたいと願っています。

それゆえ、一つ目の使命を全力で遂行し続け、二つ目の使命は信頼に足る勇気と実力のある後輩たちに委ねたいと思います。

私は自分自身の体験から、何かの啓示を受けたように感じる事がありますが、
信仰心の薄い平凡な人間だと思っています。

ゴムバンド健康法は、皆さんが「なんか・変?・・」と感じた時に、自分自身で試すことが出来ますし、身近な人にも「ゆがんでねじれてかたむいて」ないかなぁ?などと相談できる簡便且つ驚異的な健康法です。

是非、試してください。